始めに
始めに
本作はあまりに有名なクリスティ『アクロイド殺し』について解説を書いていきます。
語りの構造、背景知識
演劇的バックグラウンド
本作品は叙述トリックの先駆的な作品と言われていますが、そもそも叙述トリックは何かという話になると、「語りの戦略により作中内の事実に対して読者に誤解を与えるデザイン」くらいのところになり、そうすると広くミスリーディングな記述や語りは叙述トリックと連続的なのだとも解釈できます。
ところで、日本の文豪である谷崎潤一郎「私」も、ごく初期の叙述トリック作品と言われています。これも本作同様、等質物語世界の語り手たる「私」が、自分が犯人であるという事実を語りの中で隠匿しているという内容です。谷崎とクリスティ、二人の叙述トリックの先駆者を結ぶものとはなんでしょうか。
おそらくそれは演劇的なバックグラウンドではないかと思っています。二人とも英仏の古典主義演劇から顕著な影響を受けていることが知られていますが、例えばコルネイユ『舞台は夢』も、一種の叙述トリックと言えます。コルネイユのこの作品は第二次の語りによる作中作を第一次のそれと混同させるものです。演劇というものはそもそも演者と観客が空間的に同一の場所に存在し、両者を隔てるのはフィクションの慣習であるため、その第四の壁を突き破るメタな演出はしばしば即興でも演じられやすいです。
谷崎とクリスティという二人のモダニストは、演劇という共通項から語りの実験とそれによる作中事実の読者が抱く誤認という叙述トリックのメソッドを確立したものと推察します。
等質物語世界の語り手(手記の書き手)による作中事実の誤認
この作品は谷崎潤一郎「私」同様に、等質物語世界の語り手である手記の書き手ジェイムズが、手記を読んだ人間に対して自身が犯人である事実を隠匿するというよく知られたトリックになっております。
本作品はミステリーとしてフェアかアンフェアかみたいなことが言われますが、そもそも論としてジェイムズの中途半端に読み手に対してフェアな記述は状況的に考えると不合理です。確かにジェイムズは手記の中において自分が犯行をしたともとれる記述をしていることから、ミステリとしてのフェアネスがここに担保されているようにも感じられますが、ここでジェームズは自分は犯人であり探偵に記述を託されているという立場にあって、そのような読み手に対してフェアな記述をするという行為には、全く合理性がありません。むしろ事件を撹乱するような、物語世界内の事実と反する記述を展開する方が、ジェームズの立場としては合理的で、中途半端に自分が犯人とも匂わせる記述をするジェームズの心理的合理性が読み取れません。
例えば比較として綾辻『迷路館の殺人』で触れたJ.D.カー『貴婦人として死す』を見ていきます。これは老医師ルークの手記という体裁をとっています。本作ではルークの息子であり真犯人・トムがその手記の中であまり分量を持って記述されていないのですが、それはあくまでもルークの身辺雑記であるため、トムを露ほど疑わぬルークの記述からは、トムに関する描写が希薄になっているのです。ここにおいては、このような記述には明らかにルークという書き手の合理的意図は読み取れます。手記はあくまでもルークが記録のためにつけたメモで、しかも息子を疑っていないのですから、記述のあり方として合理的です。
つまるところ、一見ミステリーとしてフェアであるように記述されているのですが、まさにそのような記述こそが不合理なので、かえって本作はミステリーとしてアンフェアにはなっています。
物語世界
あらすじ
キングズ・アボット村のフェラーズ夫人が亡くなります。夫人は裕福で、村のもう一人の富豪ロジャー・アクロイドとの再婚も噂されていました。検死をおこなった「わたし」(ジェイムズ・シェパード医師)は睡眠薬の過剰摂取と判断しますが、姉キャロラインは夫人の死は自殺だと主張。外出した「わたし」は、行き会ったロジャーから、相談したいことがあると言って夕食に誘われます。
夕方、屋敷を訪ねた「わたし」はロジャーから悩みを打ち明けられます。再婚を考えていたフェラーズ夫人から「一年前に夫を毒殺した」ことを告白されたのです。しかも、夫人はそのことで何者かから恐喝を受けていました。そこにフェラーズ夫人から手紙が届き、それは恐喝者の名前を告げようとする手紙でした。ロジャーは一人で読むと言って「わたし」に帰宅を促します。その夜ロジャーは刺殺され、フェラーズ夫人の手紙は消えました。
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